凸版印刷(株)の創立100周年を記念して2000年にオープンした「印刷博物館」は、楽しく印刷の歴史に触れられる博物館。併設されているクラシック音楽のコンサートスペース「トッパンホール」とともに多くの人に愛されています。
建物のすぐ目の前に流れる江戸川(今の神田川)に架かる中之橋は、江戸時代からの由緒ある橋。幕府の役人で狂歌師の大田南畝(蜀山人)は、この橋をわたって多摩川に赴いていたといいます。
また、この周辺を舞台にして、島崎藤村は情緒あふれる『七人の処女』を詠んでいます。
印刷博物館 http://www.printing-museum.org
トッパンホール http://www.toppanhall.com
小石川の名刹だった曹洞宗恵日山金剛寺跡の東側にある急勾配は、寺の名に因んで今も金剛寺坂と呼ばれています。
漱石の小説『それから』で主人公の代助が三千代に会うためによく上る急勾配が、この金剛寺坂。小説の中でもこの名で登場します。
また、今の秀和マンションがある辺りには、アルチュール・アリベーという御傭外国人が住んでいました。
フランス人のアリベーは、近代日本美術の発展に大きな功績を残した岡倉天心や、内閣総理大臣の若槻禮次郎に影響を与えた人物です。
金剛寺坂近辺の話は、福沢諭吉の著書『福翁自伝』の中にも見ることができます。
文豪・永井荷風は1879年12月、旧小石川区金富町32番地と45番地(今の文京区春日2丁目20番25号辺り)に生まれ、13年間ここで暮らしました。
生家での思い出は、後に『狐』や『伝通院』、『下谷の家』など自身の作品の中で綴られています。
また、荷風は小学生の頃、本法寺の前の道を通って、黒田小学校(現、文京区立五中)に通いました。街歩きの名人だった荷風が歩んだ道を歩く。
そんな散歩もいいかもしれません。
優美な坂名の命名の由来は、万葉集からという。
そもそもこの坂上の台地は、江戸時代に、関宿藩主久世大和守の下屋敷であったため、久世山と呼ばれていました。
そこでこの近辺に居住した堀口大学や三好達治、佐藤春夫らが、万葉集の「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」より、鷺坂と名づけたとのことです。
なお「鷺坂」の石碑は堀口大学の父、堀口九萬一の揮毫です。
1902年、文学で身を立てようと旧制盛岡中学を退学した啄木。
彼が上京して初めての下宿が、八幡坂の坂上にありました。
この時、与謝野鉄幹・晶子らと知り合うなどしましたが、翌年には、病のため無念の帰郷となりました。
啄木は自身も早世でしたが、彼の妻や子も若くして世を去っていることを思うと、胸が痛みます。