第70回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に選出され、惜しくも最高賞のパルムドールは逸したようですが、現地での上映後の熱いスタンディングオベーションが伝えられた、河瀬直美監督の映画『光』を観に行ってまいりました。
名を成したカメラマンの男性(雅哉)が、次第に視力を失っていく中での動揺、不安と葛藤を主軸に、視覚障害者の方のための「映画の音声ガイド」の仕事をする若い女性(美佐子)とのかかわりや劇中劇などが織り込まれた作品です。
先にこの作品を見た方の感想が、暗い映画で救いがないというものでしたが、実際に見た感想ははまさに 光 を描いた希望を感じさせられる作品、と映りました。
特に印象に残っている場面は、二つ。
一つは視覚障害の方を交えての、映画の音声ガイドの制作場面でのこと。美佐子の過剰な説明による映画のガイドに対して、視覚障害の女性が、(正確な表現は再現できませんが)「私たちはもっと映画の中に入り込んでいる、むしろその中で生きている」と美佐子に告げる場面。
思うに目でものを見るということは、見た瞬間から、そこに分析や判断が生じて、対象化するという行為が始まる気がします。
それに比して、目で判断できなくても、だからこそ心で感じ、音やイマジネーションの力で生き生きと映画の世界で生きていける。
そういう「見方」が存在するとすれば、それは現実の世界でも通用することなのかもしれません。
もう一つ、印象に残った場面は、映画の最終場面近く。
たどたどしく杖をついて歩いている雅哉を見つけて、急いで彼のもとへと行こうとする美佐子に、雅哉が告げる言葉。
(正確な表現は再現できませんが)「僕のところにあわてて駆けつけなくてもいい、僕はちゃんと君のところに行ける、そこで待っていてくれさえすれば」視力があれば、たしかに早く物事を進めることはできるかもしれません。しかし、もし、単に視力という能力を使うことだけが、「見る」ということだとしたら、失明していく雅哉が見た最後の「光」は、だんだん輝きを失っていく気がします。
でも、どんどん視力を失っていく彼が、その後ずっと心の中で見続けることになる「光」は、内側から彼を照らす光にもなり、早くにはたどり着けなくても、大事なところや人へと彼を導く「光」にもなるように思うのです。
心でも見えるように、そして、もっともっと大事なことで真剣に迷えるようになりたいと最近思うのです。
仏教は「悟り」を目指すとは、言うまでもないことですが、それは迷わない人になるということを目指しているというよりも、よりもっと大事なことで、真剣に迷い、悩むことができるようになるということを目指していると思うのです。
悩んだり迷ったり苦しいばかり、でもその過程の折々に光に例えられる仏様の知恵に照らされると少しは楽、ということが仏教の特典かもしれません。
小日向 本法寺サイト担当 白椿(しろつばき)